山本東次郎家

初世山本東次郎則正

天保7年(1836年)8月15日、豊後竹田中川藩の江戸詰藩士・赤羽嘉助保直の三男として、江戸・芝日蔭町の中川修理大夫の中屋敷で生まれる。幼名・鈼次郎。6歳より同藩狂言方・小松謙吉に就き、狂言修行を始める。弘化2年(1845年)3月、同藩の山本武兵衛正方の養子となる。弘化3年(1846年)、狂言の素質を認められ藩命によって大蔵流宗家・大蔵彌右衛門家へ入門、当時名人と言われた同流阿波蜂須賀藩狂言方・宮野孫左衞門の内弟子となる。登也と改名。二十一世家元・大蔵彌右衛門虎武の嗣子・千太郎(後の二十二世家元・大蔵彌太郎虎年)の相手役を勤めることを許される。

嘉永2年(1849年)4月12日、次郎太と改める。この頃より舞台では東次郎の名を用いていたが、嘉永3年(1850年)11月13日より正式に「山本東次郎」を名乗る。慶応3年(1867年)、大政奉還による国勝手によって豊後竹田に移住。明治11年(1878年)の西南戦争によって家屋を焼失したため、12月、東京へ戻る。明治12年(1879年)1月、上京後の初役として金剛舞台初会で「三番三」を勤める。以後、長男・泰太郎と共に家元不在となった東京の大蔵流を守るべく尽力、明治16年(1883年)2月25日には芝能楽堂で狂言方として異例の初の主催公演(能5番、狂言4番の番組立て)の公演を行う(自身の役は『釣狐』シテ)。

明治31年(1898年)4月、京都・阿弥陀ヶ峰で催された「豊太閤三百年祭奉納能」で初日の「三番三」を勤めると、5月、家督を泰太郎に譲り、隠居名「東(あずま)」を名乗る。最後の舞台は明治35年(1902年)11月18日、東京音楽学校での催しの『宗論』。同月28日、日本橋蠣殻町の自宅にて永眠。武家式楽としての狂言を確固として守り、士族としての誇り高く、桜間伴馬、三須錦吾とともに「能楽界の三丁髷」と呼ばれ、ただ一人終生髷を切らなかった。

初世山本東次郎則正
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