山本東次郎家

二世山本東次郎則忠

元治元年(1864年)8月2日、初世山本東次郎則正の長男として芝日蔭町の中川修理大夫の中屋敷で生まれる。幼名・泰太郎。慶応3年(1967年)、父に従い、豊後竹田へ下り、幼少期を過ごす。明治11年(1878年)12月、一家揃って東京へ戻ると一ツ橋一中に入学、卒業後は小学校の教員を勤める。明治19年(1886年)7月2日には芝能楽堂で父の補佐を受けて初めての主催公演、翌20年(1887年)1月9日には初の狂言尽くしの会を主催するも、思うところあって、明治21年(1888年)、大日本水産会水産伝習所(後の東京水産大学、現在は東京商船大学と統合し、東京海洋大学)に一期生として入学、肥前の五島で二カ年の実習を受ける。

その後、能楽界に復帰、明治23年(1890年)には父主催の狂言会で『釣狐』を演じる。明治31年(1898年)5月、家督を相続し、二世山本東次郎を襲名。弟子の渡辺勝三郎(東京渡辺銀行頭取、舞台名・大月登也)の援助で明治43年(1910年)10月、本郷弓町に能舞台を建設する。昭和2年(1927年)3月に発生した昭和金融恐慌によって東京渡辺銀行が経営破綻したため、土地を差押えられ、能舞台を解体、昭和4年(1929年)、杉並区和田本町に舞台を移築再建した。

「能の狂言」を狂言の理想に掲げた大蔵流十三世家元・大蔵虎明を信奉し、古格を守って父・初世東次郎の芸を次代に伝えることに徹した。戦前の能楽協会の立ち上げに参加、見識の高さから人望を得て役員として活躍、明治大正昭和にわたって能楽界のために力を尽くした。

熱血漢であると同時に頑固さも有名で、能楽のラジオ放送が盛んになった折もこれを邪道であるとして出演を断固拒否、ようやく出演を承諾した折は新聞記事になるほど話題となった。写真の『月見座頭』(昭和9年(1934年)8月)はその折、放送局写真部が宣伝のために舞台写真を撮り、新聞各紙に掲載されたもの。昭和10年(1935年)9月1日、自宅にて永眠。

二世山本東次郎則忠
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